2014年3月24日月曜日

高知オーガニックマーケット



有機栽培の農家らが土曜日に高知市池で開いている「高知オーガニックマーケット」が、地域経済に貢献した活動に贈られる「県地場産業賞」(県産業振興センター主催)を受賞した。県外からも大勢の人が訪れる観光名所に成長し、6周年の感謝祭だった22日には、早朝から買い物客でにぎわった。

 マーケットは、高知市の故弘瀬純子さんが農家の仲間に声を掛けて2008年、同市桟橋通6丁目の高知港で始まった。有機や無農薬にこだわり、全国でも珍しい独自の厳しい基準を設定、国内の同様の市の先駆け的な存在と言われている。

 10年に現在の県立池公園に場所を移した後は、県外からの買い物客が4割近くを占めるようになり、1日平均1千人の買い物客が訪れるほどに。

 県地場産業賞は、優秀な地場産品や地域経済の活性化に貢献した活動を顕彰する賞。大賞は「水圧式ニラ洗浄そぐり機」(ヤマト商工)だったが、同マーケットは「毎週継続して開き続けている」「県外からの観光客を呼んでいる」点などが評価され、次点の「地場産業賞」を受賞した。

 純子さんと共にマーケットを支えてきた夫の豊秀さん(65)は「生活市という立場を崩さず、今後もずっと毎週欠かさず続けていきたい」と話す。

 この日の感謝祭では、新鮮な野菜や手作りのパン、お菓子、雑貨などを売る店が、100店以上並んだ。通常の40店ほどを大きく上回り、常連客の女性(59)は「安心・安全のここにしかない空気感が好き。このまま変わらず続けてもらいたい」と話した。

2014年3月23日日曜日

「(生涯で)100ミリシーベルト以下なら安全」科学的根拠なし


東京電力福島第一原発事故による健康被害対策について日本政府への勧告を提出した国連人権理事会特別報告者アナンド・グローバー氏が20~21日、東京都内や福島大で講演した。低線量被曝(ひばく)について流布されている「(生涯で)100ミリシーベルト以下なら安全だ」との説を「科学的根拠がない」と批判した。

 「放射線量が年間1ミリシーベルトを超えるすべての地域での健康管理調査」を昨年5月、政府に求めた同氏は、「100ミリシーベルト以下ならがんは増えないなどという一部の主張に合理的根拠は全くない」と強調。「正確には『分からない』と言うべきだ。危険でないと証明できない以上、慎重すぎるぐらいの対策を取るのが人権の立場だ」と提言の根拠を説明した。

 また国際法で保障されている「健康への権利」を守るために、「最も重要なのが、政策作成過程のあらゆる段階に当事者が参加することだ」と指摘。今回の原発事故では避難指示や帰還方針の決定過程で「被災者の参加がない」とした。

 講演後のシンポジウムで荒木田岳(たける)・福島大准教授は、政府が同氏の勧告に「個人的見解で法的拘束力はない。科学的根拠に乏しい」などと反論したことを紹介。「政府こそ反論の根拠を示さず、原子力を推進する一民間団体の国際放射線防護委員会の見解に依拠するだけ。事故前の法規制さえ守らない」と批判。同氏は市民が声をあげること、政府との対話の継続を訴えた。

2014年3月20日木曜日

ゾーン30

通学路や生活道路の最高速度を時速30キロに抑え、歩行者や自転車の安全を図る「ゾーン30」が、県内でも整備されている。ドライバーによく分かるように、道路に黄緑色の字で「ゾーン30 ここから」と描かれている。昨年度は7カ所、今年度は10カ所指定され、新年度も新たに10カ所に出来る予定だ。学校関係者からは「子どもたちが安全に登下校できる」と喜ぶ声が上がっている。
 県警によると、「通学路がある」「歩行者や自転車の交通量が多い」「生活道路が渋滞回避の抜け道になっている」といった地域がゾーン30の対象になる。県警や各署でそうした地域を探し、実際の事故状況などを調べ、自治体や地元町内会と話しあったうえで指定する。
 これまでに、倉敷市立水島中学校、同市立第五福田小学校、岡山市立宇野小学校、笠岡市の笠岡第一病院付属診療所など、学校、医療機関、公園の周辺などで整備されてきた。
 このうち岡山市中区の宇野小学校の校区は、児童数が885人(昨年5月1日現在)と多く、近くに家電量販店や大型スーパーがあって交通量が多いことから選ばれた。約32万8千平方メートルの地域で昨年9月から今年1月末にかけて、ゾーン30を示す塗装をしたり、路側帯を示す白線を塗り直したり、車道を狭く錯覚させるような塗装を施したりした。中央線をあえて消し、車がすれ違うときに速度を落とすことを意識させるようにもした。
 同小学校の有國肇教頭は「今までは(路側帯の)白線も消えかけていて見にくかったが、子どもたちが線を守って通学するようになった。スピードを出す車も減り、子どもたちも安心できる」と話している。
 岡山市北区の鹿田小学校では、正門前の道路の路側帯を示す白線をカーブ状に車道側に膨らませ、車が校門の近くを避けて通るような工夫もしている。
 県警によると、2016年度までに40カ所以上指定するのが目標。これまでに整備した地域で実際にどの程度の効果があったのか、詳細な分析はこれからだが、安全になったと評価する声が多く伝わってきているという。県警交通規制課の担当者は「これからもゾーン30の設置を進め、重大な事故の起きない、安全な地域にしていきたい」と話している。

2014年3月19日水曜日

派遣法違反



 さいたま市は、派遣契約において、派遣先管理台帳を作成しないなど労働者派遣法違反が2010~13年度に計5315件あったことを、ホームページで公表した。2月6日に埼玉労働局に対し是正報告書を提出したという。


 労働者派遣法では、派遣受け入れ先は、労働条件や勤務時間、苦情相談内容などを記載する管理台帳を個別に作る必要がある。

 市コンプライアンス推進課によると、派遣契約をしている8課のうち6課で、派遣管理台帳の不備が5304件あり、そのほとんどで個別の台帳を作成していなかった。投開票の事務補助を依頼した選挙課が4669件と最多で、税申告書の入力事務契約をした市民税課が378件で続いた。

 昨年9月、シルバーポイント事業の派遣契約でも、同じ不備が10件判明し、埼玉労働局から是正指導を受けたことから、市は全庁的に点検を実施していた。コンプライアンス推進課は「勤務時間などが書かれた一覧表は大抵あったが、台帳を個別に作らないといけないという認識に欠けていた」としている。

 このほか、就業場所ごとに作る必要がある契約書が足りないなど「個別契約の不備」が11件あった。

2014年3月11日火曜日

とにかく高台へ逃げろ


南三陸町に、昭和三陸、チリ地震、東日本大震災と、3度の津波を体験した人がいる。いずれも逃げて無事だったが、自宅は2度被災した。貴重な生き証人は「一番言いたいのは、過去の体験談に先入観を持たず、とにかく高台へ逃げろということ」と話す。

 阿部清敬さん(90)は、同町志津川の海岸近くで育った。中学校の教諭や校長を歴任。退職後は、旧志津川町の教育長を務めた。

 昭和三陸津波を経験したのは9歳の時。1933(昭和8)年3月3日午前2時半ごろ、揺れを感じて布団から跳び起きて外に出たが、立っていられずしゃがみこんだ。

 明治三陸津波を経験した祖母の指示で、避難したのは自宅の2階だった。明治三陸津波の後に造られた高さ3・3メートルの石積みの防潮堤で津波は食い止められ、街への浸水はわずかだったという。

 60(昭和35)年5月24日。37歳の時にチリ地震津波に襲われた。午前4時ごろ、人の声が聞こえて目が覚めた。裏の畑に行くと、海水が防潮堤を越えて浸水した跡があり、土の中から気泡が出ていた。「海の水がひいた。大津波が来るから逃げろ」という女性の大声が聞こえたため、妻子らと高台に逃げた。

 この時は、津波は防潮堤を越えた。逃げる最中、何軒かの家が「ポッと」浮いて流れていく光景を目の当たりにしたという。自宅は床上2メートルまで浸水したが、再建して住み続けた。

 そして、東日本大震災。大きな揺れが長く続いたため、「津波が来ることを直感した」と話す。妻と2人、息子の車で町内の高台にある中学校に避難した後、自宅は流失した。

 阿部さんが一番言いたいのは、津波が来そうな時には「とにかく高台へ逃げろ」ということだという。「今回の震災では過去の浸水域を越えた所でも犠牲者が出た。伝承もその時々で検証しないとならないし、過去の浸水域を示す看板に先入観を持たないで行動すべきだ」と訴える。

2014年3月10日月曜日

窪川原発の語り部



「窪川には2万3千町歩の山があり、2400町歩の田んぼで年に15万俵の米がとれる。乳牛1200頭に豚3万頭。ここは命を養う里だ、原発はいらない――。そう言ったんだ」

 今月1日。四万十町の島岡幹夫さん(75)が、自宅を訪れた研究者らを前に、「窪川原発」の建設計画を退けた反対運動のようすを振り返った。1980年10月8日、酪農と米作の農家だった島岡さんは、窪川町(当時)議会の特別委員会に反対派の代表として呼ばれ、意見を述べた。

 島岡さんは窪川高を出て大阪府警に就職。数年後、結核を患い地元に戻った。自民党支部で組織広報を担当していたが、原発計画が持ち上がると、反対派住民団体「郷土(ふるさと)をよくする会」の常任幹事に就いた。反原発の原点は、乳がんを患い51歳で亡くなった母親だ。放射線治療で胸が炭化した姿を見て、放射線の恐ろしさを実感したのだという。

 反対運動の調査をするのは明治学院大(東京)国際平和研究所のチーム。准教授の猪瀬浩平さん(35)は文化人類学が専門で、福島第一原発事故以降の人々の生き方や価値観を研究する。非常勤講師の木下ちがやさん(42)は政治学が専門。原発事故後に始まった首相官邸前の脱原発抗議行動にも関わってきた。

 島岡さんと猪瀬さんが出会ったのは、東日本大震災が起きた2011年3月11日だった。場所はタイのバンコク。島岡さんは農業塾の指導、猪瀬さんは農村の視察で学生を連れていた。津波に襲われる東北をテレビで見て、島岡さんは福島と女川(宮城県)の原発を心配した。それから1週間、島岡さんは学生たちに毎日、原発の講義をした。

 交流はその後も続き、猪瀬さんは年に数回窪川を訪れ、町民の聞き取りや資料の整理をしている。

 窪川原発反対運動のさなか、推進派が「経済活性化のために原発は必要」と訴えたのに対し、「郷土をよくする会」は代案として農林漁業の振興を主張。「窪川ジャガイモクラブ」を結成して無農薬のジャガイモを育て、県内の都市部で販売しながら反原発を呼びかけた。

 島岡さんは「中央の支配は受けん。原発に頼らずとも自分たちの努力で道は選べる。窪川は農業でやっていけると実証したかった」。猪瀬さんは「話を聞くうちに、島岡さんたちにとって、原発を止めるというより窪川の暮らしを守ることが重要だったと分かってきた」と話す。

 町を二分する争いのなか、島岡さんは包丁で腹を刺されたり、車に左足をひかれたりしたという。それでもいまはこう振り返る。「(原発建設は)止めて正解だった。長年、『あれで高知の発展が阻害された』と罪人のように言われてきたが、3・11の後は神様、救世主のような扱いだ」

 猪瀬さんは窪川での研究成果を本にまとめるつもりだ。「窪川原発をめぐる対立は地域の豊かさをめぐる戦い。お上が決める価値観とは別の価値観を作り出そうと、一人ひとりが問い続けた。それはいま現在も問われている」。木下さんも「現在の脱原発運動は68年の学園紛争と異なり、地に根を張っている。一過的・観念的にならず、大衆的に運動を作った窪川の運動と通じており、経験を聞くのは参考になる」と話す。

 反対運動の当時を知る人が少なくなってきた、と島岡さんは語る。「窪川に原発ができたら、いずれ福島と同じことが起きていた。福島の問題を自分たちの問題としてとらえなければ。窪川原発の語り部として、未来ある人に伝えたい」

2014年3月6日木曜日

移動スーパー導入

 
京都府北部を中心に出店するスーパー、フクヤ(本社・宮津市)が4月から舞鶴市内で移動スーパー「とくし丸」2台を導入する。同社と府、市の3者が5日、運転手が地域の一人暮らしの高齢者らの見守り活動をする協定を結んだ。

 「とくし丸」は、徳島市の会社が展開。軽トラックに300種類以上の商品を積み、スーパーの委託した運転手(販売パートナー)があらかじめ申し込んだ1日40~50軒を回り、1点当たり店舗の10円増しで販売する。

 フクヤは徳島の会社にノウハウなどの提供を受けて参入。車は白鳥店、西舞鶴店を中心に巡回する予定で、見守り活動は、運転手が訪問した高齢者らの異常を発見した場合、市に通報する。

 市役所であった締結式にはフクヤの平野功社長、府中丹広域振興局の金谷浩志局長、多々見良三・舞鶴市長らが出席。覚書、協定書に署名した後、金谷局長が平野社長に車に張る「中丹ふるさとを守る絆ネット」のステッカーを手渡した。平野社長は「長年地域で商売させてもらっており、恩返しをしたい」と抱負を述べた。