2014年3月10日月曜日

窪川原発の語り部



「窪川には2万3千町歩の山があり、2400町歩の田んぼで年に15万俵の米がとれる。乳牛1200頭に豚3万頭。ここは命を養う里だ、原発はいらない――。そう言ったんだ」

 今月1日。四万十町の島岡幹夫さん(75)が、自宅を訪れた研究者らを前に、「窪川原発」の建設計画を退けた反対運動のようすを振り返った。1980年10月8日、酪農と米作の農家だった島岡さんは、窪川町(当時)議会の特別委員会に反対派の代表として呼ばれ、意見を述べた。

 島岡さんは窪川高を出て大阪府警に就職。数年後、結核を患い地元に戻った。自民党支部で組織広報を担当していたが、原発計画が持ち上がると、反対派住民団体「郷土(ふるさと)をよくする会」の常任幹事に就いた。反原発の原点は、乳がんを患い51歳で亡くなった母親だ。放射線治療で胸が炭化した姿を見て、放射線の恐ろしさを実感したのだという。

 反対運動の調査をするのは明治学院大(東京)国際平和研究所のチーム。准教授の猪瀬浩平さん(35)は文化人類学が専門で、福島第一原発事故以降の人々の生き方や価値観を研究する。非常勤講師の木下ちがやさん(42)は政治学が専門。原発事故後に始まった首相官邸前の脱原発抗議行動にも関わってきた。

 島岡さんと猪瀬さんが出会ったのは、東日本大震災が起きた2011年3月11日だった。場所はタイのバンコク。島岡さんは農業塾の指導、猪瀬さんは農村の視察で学生を連れていた。津波に襲われる東北をテレビで見て、島岡さんは福島と女川(宮城県)の原発を心配した。それから1週間、島岡さんは学生たちに毎日、原発の講義をした。

 交流はその後も続き、猪瀬さんは年に数回窪川を訪れ、町民の聞き取りや資料の整理をしている。

 窪川原発反対運動のさなか、推進派が「経済活性化のために原発は必要」と訴えたのに対し、「郷土をよくする会」は代案として農林漁業の振興を主張。「窪川ジャガイモクラブ」を結成して無農薬のジャガイモを育て、県内の都市部で販売しながら反原発を呼びかけた。

 島岡さんは「中央の支配は受けん。原発に頼らずとも自分たちの努力で道は選べる。窪川は農業でやっていけると実証したかった」。猪瀬さんは「話を聞くうちに、島岡さんたちにとって、原発を止めるというより窪川の暮らしを守ることが重要だったと分かってきた」と話す。

 町を二分する争いのなか、島岡さんは包丁で腹を刺されたり、車に左足をひかれたりしたという。それでもいまはこう振り返る。「(原発建設は)止めて正解だった。長年、『あれで高知の発展が阻害された』と罪人のように言われてきたが、3・11の後は神様、救世主のような扱いだ」

 猪瀬さんは窪川での研究成果を本にまとめるつもりだ。「窪川原発をめぐる対立は地域の豊かさをめぐる戦い。お上が決める価値観とは別の価値観を作り出そうと、一人ひとりが問い続けた。それはいま現在も問われている」。木下さんも「現在の脱原発運動は68年の学園紛争と異なり、地に根を張っている。一過的・観念的にならず、大衆的に運動を作った窪川の運動と通じており、経験を聞くのは参考になる」と話す。

 反対運動の当時を知る人が少なくなってきた、と島岡さんは語る。「窪川に原発ができたら、いずれ福島と同じことが起きていた。福島の問題を自分たちの問題としてとらえなければ。窪川原発の語り部として、未来ある人に伝えたい」