2012年7月24日火曜日

原田正純さんの遺言


■「歴史を動かすのは多数派じゃない」 

6月11日に77歳で他界した水俣病研究の第一人者、原田正純医師に死去の9日前、川本輝夫さんについての思いを聞いた。このインタビューが事実上の遺言になった。

――川本輝夫さんと出会ったのは40年以上前。手を携えて患者さんのために奔走しましたね。

「いろんな患者さんと会っても、どこでどうしてという記憶はあまりないけど、川本君との出会いだけは明確に覚えてる。訪ねてきて『死んだ人を水俣病って診断できるか』と聞かれたんです。常識的に言えば診断がつくわけがない、と思って一蹴したら、『カルテを見てくれ』と。お父さんのカルテだったんです。ぼくは愕然(がくぜん)とした。水俣病の症状がそろっておるわけです。ところが、どこの病院へ行っても水俣病と診断をつけてくれんで、最後は精神科病棟で亡くなられた。そのときの診断が脳軟化症か何かで『納得がいかん』と。それから、いろいろ話をしよるうちに『遺骨を掘る』って言い出した。『骨で有機水銀の影響がわからんか』というわけです。何年か経ってから掘ったけど、結局わからなかったのね」

――出会った当時、「水俣病は終わった」とされていました。

「そうです。それで、ぼくは川本君に引き出されたわけね。まず、彼の家のある水俣の月浦(つきのうら)あたりに連れていかれて、診察してね。あのころは重症患者がまだ寝ていましたよ。ぼくはショックの連続で……。実は潜在患者がいるんじゃないか、と思っておったんです。62年から1年間東大へ留学して、『病気というのはひどい例ばかりじゃない。もっと軽い患者はいないのか』と質問されてね。帰ってきてから、水俣市立病院の副院長に、『認定された患者の家族も同じ魚を食べている。検診しましょう』と言ったんです。そうしたら、はねられた。『君、寝た子を起こすわけにはいかんよ』って。頭に来てね。そこに川本君の助けがあったわけです」

――川本さんは71年12月から1年7カ月、チッソ本社で座り込み、補償協定への道を切り開きました。

「川本君はもっと評価されていいんじゃないかと思うんです。水俣病の歴史の中で、彼は多数派ではなかった。だけど、ぼくの経験では歴史を動かすのは多数派じゃない。本当に志のある何人かですね。ぼくに非常に大きな影響を与えてくれたし、いろんなことを彼から学んだ。一緒に経験できて、よかった。感謝しているんです。何といっても、現場に行くということ、現地まで引っぱっていってもらったことの貴重さ。これは、今からの若い人たちにぼくらが伝えることでしょうね」