2012年3月1日木曜日

餓死者・孤立死どう防ぐ

朝日新聞の各務滋(事件社説担当)さんの記事です。

 この豊かな時代に、都会の真ん中で、食べることができなくて亡くなる人がいる。
 なぜなのか。どうすれば防げたのか。やせ衰えた遺体が相次いで見つかった事件に、だれもが答えを探しあぐねているのではないか。

 札幌市や東京都立川市で、知的障害がある女性や子どもが、家族が病死して取り残され、命を落とした。
 さいたま市の親子3人は住民登録がなく、生活保護も受けていなくて、市も一家の苦境を知らなかった。
 さいたまや札幌の場合、電気やガスがしばらく前からとまっていた。そこで、行政が事業者から公共料金の滞納情報の提供を受けられないものか、と検討されている。 

 ただ、その中から困窮した人を見つけ出すには、結局、だれかが何度も足を運ぶしかないのではないか。
 厚生労働省によると、餓死者は30年前には年間約20人だったのが、バブル崩壊後に40~90人ほどに増えた。
 孤立死も、東京都内の独り暮らしのお年寄りの場合、15年前の年千人前後から、近年は2千人台になっている。
 最近、自殺問題を取材し、孤立死と通じる部分があると感じた。自殺者にも無職の人が多い。だが、おそらく、お金だけの問題ではない。
 実は、私たちの社会は仕事や学校、家庭から一歩外の世界に出れば、人とのつながりが薄い。だから、そこからこぼれ落ちた人々の苦境は気づかれにくい。そして、孤立している人ほど、SOSを出すのをためらいがちだ。 

 かつて、ある中学校の先生からこんな話を聞いた。
 母親が家出し、マンションに取り残された男子生徒がいた。会えない日が続いて心配になり、大家に鍵を借りて踏み込んだ。電気もガスもとまり、食べものもない部屋で、生徒は動けなくなっていた。
 勝手に入れば母親とトラブルになるかもしれない、と迷ったそうだ。そこでやめていたら生徒は救えなかった。
 近所の子どもを預かったり、おすそ分けをしたりするのが当たり前だったのは、いつごろまでだったろうか。 

 濃い人間関係には、わずらわしさもある。ひとさまの生活に干渉しないのも優しさだろう。でも、それは元気な人どうしの話だ。
 ときには「おせっかい」を焼かないと、救えない命もあるかもしれない。迷った時、一人ひとりが、そう想像してみる。それしかない気がしている。